雨宿り
まだ梅雨前だっていうのに、今年の春はよく降る。 濡れたスーツを薄っぺらいハンカチで拭きながら、俺は困り果てて空を見上げた。 急に暗くなった空は見る間に湿気を帯び、建物に入る前に降り出した。 今は側にあった本屋の軒先で雨宿り中だ。 「参ったな、戻れない」 取引先から帰社の途中だった。こんな事ならタクシー代をケチらなければ良かった。 最近仕事と家の往復で、自慢だった体力も落ちてきたからと徒歩を選んだんだ。 その時、ふと背後でチリンチリン――というドアベルがして、誰かが「あの」と声をかけてきた。 ……綺麗な人だった。 肩くらいまでの薄い茶の髪に、穏やかそうな面立ち。一瞬女性か男性か迷う、そんな中性的な感じがあった。 「よければ傘、お貸ししましょうか?」 「え?」 思わず見とれてしまった俺は、言われた事が入ってこなかった。 驚いて見ていたんだろう。相手は少し慌てた様子で、手に持っていたビニール傘を俺に差し出した。 「お困りみたいだったので。あの、余計なお節介だったでしょうか?」 「あぁ! いや、ありがとうございます!」 俺もようやく気がついて、何度もペコペコ頭を下げて傘を受け取り、そのかわりに名刺を渡した。 「俺、幸村孝宏です。これ、必ずお返ししにきます!」 「まぁ、ご丁寧に。でも、あまり気にしないでください」 そう言ってやんわりと微笑んだそれは、春の花が綻ぶような柔らかさと、温かさがあった。 帰社して、報告して、定時を少し過ぎた。 雨はその間に止んでいて、会社近くのワッフル屋でお土産を買って、俺は急いであの本屋に戻った。 店はまだ開いていた。 あの時はあまり気にしていなかったけれど、古い書店だ。 個人店なんだろう。木製の扉があって、その両サイドには大きめの窓が二つ。その窓から、古い本棚が並んでいるのが見える。 まだ明かりが付いているから、人はいるのだろう。 妙な緊張に傘の柄を握り、深呼吸なんかしてから、俺は扉を開けた。 チリンチリン…… 軽やかな音がすると、入口正面のカウンターに座っていた人が顔を上げ、俺を見て「まぁ」と声を上げた。 「あの、先程はありがとうございました」 「まぁまぁ、ご丁寧に。本当に、気にしなくてよかったのに」 そう言ってカウンターから出てきた人はやっぱり楽しそうで、嬉しそう。 その笑顔だけで、俺はどこかが軋んだみたいに少し痛くて、胸の辺りがジワリと痺れた。 「あの、これ……お礼と言ってはなんですが」 持っていたワッフルの箱を差し出すと、彼は更に驚いたあとで嬉しそうに笑ってくれた。 「わぁ! これ、駅前の方にあるワッフル屋さんのですよね? 美味しいですよね」 「お好きなんですか?」 「はい。ふふっ、嬉しいです」 ドキ…… 屈託なく、本当に嬉しそうに微笑んでくれる人を、俺は可愛いと思った。 あの時は性別を疑ったけれど、声とか、手を見ると間違いなく男性だと分かる。 それなのに、俺はこの人から目が離せず、ドキドキと心臓が跳ねている。 そんな俺に気付かない人は、ふと手を叩いて俺を見た。 「そうだ。よろしければ、お茶をしていきませんか? この店、奥の方にイートインスペースがあるんです。ほら、お茶とかコーヒーを飲みながらの読書って、素敵なじかんでしょ?」 「え? あぁ。いや、でも」 「お店、丁度閉める時間だったんです。少し居眠りをしていて、遅くなりましたけれど」 そんな風に言って、彼はサッと俺の横を通り過ぎて表に出ると、シャッターを閉め、入口を施錠した。 その後で、ふと気付いたようにこちらを見た。 「あっ、でもご用事とか、ご家族がいるならご迷惑ですよね。すみません」 気付いたようにシュンとされると、花が萎んだみたいで可哀想になり、俺は慌てて首を横に振った。 「俺、独身ですし彼女もいないので!」 「そう、なんですか? 幸村さん、素敵なのに」 それは、貴方の方では? 「あっ、申し遅れました。私は花井悠です」 そう言って微笑んだこの笑顔を、俺はまた見たいと思った。 雨の日、ずぶ濡れになった最悪は、彼のお陰で最高の一日に変わったのだった。
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凪瀬夜霧執筆歴20年以上の腐女子です。 主にBLを中心に書いておりますが、基本は何でも書きます。 色々なサイトで書いているので、気に入ってくださったら遊びにきてください。
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