SHUSAK

雨宿り

凪瀬夜霧·1,635·投稿 2026.04.23·更新 2026.04.23

 まだ梅雨前だっていうのに、今年の春はよく降る。  濡れたスーツを薄っぺらいハンカチで拭きながら、俺は困り果てて空を見上げた。  急に暗くなった空は見る間に湿気を帯び、建物に入る前に降り出した。  今は側にあった本屋の軒先で雨宿り中だ。 「参ったな、戻れない」  取引先から帰社の途中だった。こんな事ならタクシー代をケチらなければ良かった。  最近仕事と家の往復で、自慢だった体力も落ちてきたからと徒歩を選んだんだ。  その時、ふと背後でチリンチリン――というドアベルがして、誰かが「あの」と声をかけてきた。  綺麗な人だった。  肩くらいまでの薄い茶の髪に、穏やかそうな面立ち。一瞬女性か男性か迷う、そんな中性的な感じがあった。 「よければ傘、お貸ししましょうか?」 「え?」  思わず見とれてしまった俺は、言われた事が入ってこなかった。  驚いて見ていたんだろう。相手は少し慌てた様子で、手に持っていたビニール傘を俺に差し出した。 「お困りみたいだったので。あの、余計なお節介だったでしょうか?」 「あぁ! いや、ありがとうございます!」  俺もようやく気がついて、何度もペコペコ頭を下げて傘を受け取り、そのかわりに名刺を渡した。 「俺、幸村孝宏です。これ、必ずお返ししにきます!」 「まぁ、ご丁寧に。でも、あまり気にしないでください」  そう言ってやんわりと微笑んだそれは、春の花が綻ぶような柔らかさと、温かさがあった。  帰社して、報告して、定時を少し過ぎた。  雨はその間に止んでいて、会社近くのワッフル屋でお土産を買って、俺は急いであの本屋に戻った。  店はまだ開いていた。  あの時はあまり気にしていなかったけれど、古い書店だ。  個人店なんだろう。木製の扉があって、その両サイドには大きめの窓が二つ。その窓から、古い本棚が並んでいるのが見える。  まだ明かりが付いているから、人はいるのだろう。  妙な緊張に傘の柄を握り、深呼吸なんかしてから、俺は扉を開けた。 チリンチリン  軽やかな音がすると、入口正面のカウンターに座っていた人が顔を上げ、俺を見て「まぁ」と声を上げた。 「あの、先程はありがとうございました」 「まぁまぁ、ご丁寧に。本当に、気にしなくてよかったのに」  そう言ってカウンターから出てきた人はやっぱり楽しそうで、嬉しそう。  その笑顔だけで、俺はどこかが軋んだみたいに少し痛くて、胸の辺りがジワリと痺れた。 「あの、これお礼と言ってはなんですが」  持っていたワッフルの箱を差し出すと、彼は更に驚いたあとで嬉しそうに笑ってくれた。 「わぁ! これ、駅前の方にあるワッフル屋さんのですよね? 美味しいですよね」 「お好きなんですか?」 「はい。ふふっ、嬉しいです」 ドキ  屈託なく、本当に嬉しそうに微笑んでくれる人を、俺は可愛いと思った。  あの時は性別を疑ったけれど、声とか、手を見ると間違いなく男性だと分かる。  それなのに、俺はこの人から目が離せず、ドキドキと心臓が跳ねている。  そんな俺に気付かない人は、ふと手を叩いて俺を見た。 「そうだ。よろしければ、お茶をしていきませんか? この店、奥の方にイートインスペースがあるんです。ほら、お茶とかコーヒーを飲みながらの読書って、素敵なじかんでしょ?」 「え? あぁ。いや、でも」 「お店、丁度閉める時間だったんです。少し居眠りをしていて、遅くなりましたけれど」  そんな風に言って、彼はサッと俺の横を通り過ぎて表に出ると、シャッターを閉め、入口を施錠した。  その後で、ふと気付いたようにこちらを見た。 「あっ、でもご用事とか、ご家族がいるならご迷惑ですよね。すみません」  気付いたようにシュンとされると、花が萎んだみたいで可哀想になり、俺は慌てて首を横に振った。 「俺、独身ですし彼女もいないので!」 「そう、なんですか? 幸村さん、素敵なのに」  それは、貴方の方では? 「あっ、申し遅れました。私は花井悠です」  そう言って微笑んだこの笑顔を、俺はまた見たいと思った。 雨の日、ずぶ濡れになった最悪は、彼のお陰で最高の一日に変わったのだった。


WRITTEN BY

凪瀬夜霧

執筆歴20年以上の腐女子です。 主にBLを中心に書いておりますが、基本は何でも書きます。 色々なサイトで書いているので、気に入ってくださったら遊びにきてください。


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