空を映す水の粒
——LAYER S-3 SELECTED. ——D.I.V.E. SYSTEM STARTING UP. 聞き慣れた電子音声が耳に届き、頭が冴え渡る。「潜る」ときは毎度緊張するものだ。ゴーグルを押さえながら大きく深呼吸して身構えたら、アラート音が鳴り響いた。 ——INFORMATION DENSITY ERROR. ——ID値が閾値を超えています。続行するにはアラート解除操作を行ってください。 目の前のディスプレイが真っ赤に染まった。脳を揺さぶるように響く鋭い音に顔をしかめながら、インカムのミュートを解除する。 「おい、大丈夫なのかこれ」 潜水前のルーティーンを乱され、自然と声も尖ってしまう。加えて、オペレーションルームに苛立ちが伝わるようにわざと棘を含めて発したから、自分としては最大限に攻撃力を持った声にできたのではなかろうか。 きっと相手にもそれは伝わっているのだろうが、返ってきたのはこちらの神経を逆撫でする飄々とした声だった。 「言ったじゃ〜ん。今日のはちょっとハードだから気をつけてねって」 「『ちょっとハード』で済ませていいのか? 初めて聞いたぞこんなの」 「だぁいじょうぶだぁいじょうぶ。閾値超えてるって言っても、メーター監視しといて何かあったらすぐに中断すれば問題ないし! ……まあ大丈夫じゃなくても行ってもらわないと困るからね。他の連中は情報量に耐えきれなくてダウンしちゃったんだ、君が頼みの綱なんだよ」 「おい」 「じゃ、いってらっしゃ〜い」 スピーカーの向こうから、ピピピ、とパッドを操作する音が聞こえてくる。即座にアラート音が止み、ゴーグル内部のディスプレイが青白く光ってプログレスバーがのっそりと動き出した。諦めてもう一度深呼吸をしたが、緊張を和らげるためのものというより、ただの重い溜め息だった。 こんな仕事をしているから、いつ情報量に負けて植物状態になっても良いように覚悟はしているものの、そうは言っても潜水直前になって初めて知らされるのはいかがなものか。何時間でも文句を垂れる自信はあるが、危険性に見合っただけの報酬は受け取っているからおとなしく口を噤む。 ——潜水を開始してください。 プログレスバーが緑色で満たされる。視線入力で続行操作をしてしばらく待つと、キン、と耳鳴りがした。今日の仕事——「潜水」が始まった。 物心がついた頃には、VRデバイスが当たり前のように生活の中にあった。父から聞いたところによると、曾祖父母が義務教育を終えるぐらいの頃にようやく学校の授業もバーチャル空間で行うのが一般的になったとのことだ。それより前は、学校の授業は当然、ビジネスの打ち合わせもレジャーも、アーカイブで振り返ることができないのが普通だったというのだから信じられない。 VR元年から四百年以上が経過し、社会問題となっているのは太古の昔から世界に存在する「ゴミ」同然のデータである。世界はムーアの法則の終焉を乗り越え半導体の集積率を地道に上げてきているとはいえ、日常のアーカイブ化が進んでいる今、初期化してフォーマットできるデータ領域は再利用するに越したことはない。 数年前から始まったこの「潜水」プロジェクトは、百年単位でアクセスのないデータ領域と人間の脳を直接接続し、データを抹消するかどうかを判断するための調査プロジェクトだ。この仕事——情報潜水士(ビットダイバー)の仕事を遺跡発掘にたとえて説明することもあるが、実際には下手な遺跡発掘よりもずっと危険な仕事である。大昔のファイルフォーマットに、生体接続に備えた安全対策が講じられているはずもない。一応は負荷テストをクリアした者だけが従事できる仕事とはなっているものの、その負荷テストで想定できない事態などいくらでも発生しうる。 冷静に考えてみればどうしてこんな仕事をしているのか不思議でならないが、他にここまで手っ取り早く稼げる仕事もない。危険で誰もやりたがらない仕事など、昔から度胸だけは人一倍あると言われてきた自分にはうってつけの仕事だろう。他の数多の労働者と同じく家で寝転がったままゴーグルとインカムをつけて倍の収入が得られるということであれば、選択しない手はない。 視界の端のバイタル値が正常であることを確認しながら、重たい「水」を掻き分けて進む。今回の潜水任務は、西暦二〇一〇年代から二〇二〇年代にかけて世界中で広く普及していたSNSのデータの調査だ。データの種別としてはテキストと画像・動画であり、たいして複雑なものでもないがひたすら量が多いとのことだった。言語にかかわらず一投稿一四〇字以内という制限があったからか発信の手軽さが売りになっており、一日で数百投稿するヘビーユーザーもいたという。一時は企業のプロモーション活動に留まらず行政からのアナウンスにも使われていたというから、当時の人々の暮らしとの密接さがうかがえる。 視覚なのか聴覚なのかもわからない感覚を通り抜け、奔流のように情報が脳へと流れ込んでくる。内容は実に雑多で、「ん」などという、まるで中身のない一文字だけの投稿から、一四〇字みっしりと思いの丈が書かれた投稿までが頭の中で駆け巡る。祖父母や曾祖父母が生まれるよりもずっと前の地球の日常は、猥雑で、無秩序で、混迷を極めているように思えた。が、今は情報の受発信が整備されているからそう感じるだけで、結局のところ今だって生身の人間が発する情報などこんなものなのかもしれない。 「……ん?」 ある一連の投稿が引っかかり、思わず「振り返った」。投稿に付随している投稿者の名称が、まるで塗りつぶされたかのごとく真っ黒になっている。記号にしては形の整っていないその文字らしきものに触れ、そっと解きほぐす。触ってみてすぐに気がついた。何枚もの文字のレイヤーが重なっている。投稿者名がここまで何回も変わるものだろうか。その疑問とともにぺりぺりと文字を剥がして並べてみる。 「……トイレットペーパー、卵、洗剤……牛乳、醤油……なんだこれ?」 やけに生活感のある名称が並ぶ。呆気に取られていると、呑気な声が聞こえてきた。 「その頃はドローン技術が進む前で、ネットスーパーは一部の地域でしか使えなかったらしいからね。さしずめ、店に行くのに買い忘れがないようメモ代わりに使っていたってところかな」 「投稿者名をそんなことに? さすがにもっと使いやすいアプリがあったんじゃないか?」 「さあ〜? でも、実際そういう用途で使われてたみたいだし。……ほら」 確かに、投稿の中には「買った」とひと言短く書かれているものもある。投稿者名変更のタイミングとの前後関係までは追えないが、やはり買い物リストの用途で変更がされていたと考えるのが自然だろう。今自分が身を置いているこのデータ群に対し、より猥雑な印象が増した。 「——物好きな学者は喜ぶかもしれんが、こんなめちゃくちゃなデータ、整えるのに一生かかるんじゃないか」 全廃棄で問題ないだろ、と鼻息を鳴らしたら、裏返った悲鳴が応答した。 「もうちょっと真面目に見てよぉ。今確認できたのは二カ月分とかそんなもんだよ?」 「げぇ」 そんな声が漏れたのは、データ量の問題というより、中身の雑多さが原因だった。人間の脳の中身をそのまま持ってきたかのようなあけすけな投稿があまりにも多く、胸焼けがしそうになっていた。 「残り見なくてもわかるだろ。こんな調子でしょうもない情報が続くんだったら、他の投稿もたかが知れてる。無駄な遺物なんかさっさとどけて再利用したほうがいい」 「無駄ねえ」 インカムの向こうからはうっとりとした声が返ってきた。 「こんな仕事してて言うのもおかしいけど、もうちょっと楽しんでいこうじゃないの。この上なく無駄で、非効率で、だらしなくて、素敵な遺産だよ」 抗議はしてみたが、自分の一存で調査を中断することなどできない。無言で降参してもう一度大きく溜め息をついたら、呼気に反応した雑多なデータの海が、こちらの苦労を嘲笑うようにさざめいた。
WRITTEN BY
佐倉こうじろう気まぐれに書きます。
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